昭和五十七年五月二十二日 朝の御理解
御理解第九十八節
「心は神信心の定規ぢゃによって、お伺ひする時には取りわけ平気でなければならぬ、落ち着いて静かに願へ」
自分の頂いておる信心、神様が、どれ程のものか、と云う事を分からしてもらうと、成程自分がおかげを受けておる事、又は、おかげが受けられない事がはっきりしてくると思うのです。
熱心にお参りをしております。毎日お教えを頂いております。と云うてもその神様が、又は、その教えが私共の日常生活の上にどう表されておるか、と云う事で自分の信心の程度が分かる、と思うんですね。
心は信心の定規ぢゃによって、と。
教えを頂く事によって心がどう育っていっておるか、進展していっておるか、と。
いくら参っておっても、拝んでおっても、自分の心が育っていない、いつもやっぱり自分が中心であるね。
神様を中心の生活が出来ていないね。
そこに、自分の信心の定規をおし当てて、あっこんな事ではおかげが受けられん、と悟らなければいけない、と思うね。
昨日は伊万里支部の御大祭でございましたが、帰りの車の中でラジオのニュースを聞いていると、今日は佐賀県の市長会議があり、その模様を報道してました。
私、それを聞いてびっくりしたんですね。
伊万里市長で居られる竹内先生は、昨日は支部長としてお祭りを終始しておられたし、私共が参ります途中まで出迎えにまで来て頂いとりました。あら、今日は市長さんの、それこそ大切な市長会議があっておったのに、と思っておったら、威智雄さんが申すにはお祭りの後に御参拝になったそうですね、やっぱりお出でられる事だけは、ちょっと朝のうちにお出られた。そして再度の市長になられたので皆に紹介があり、その後すぐ帰られたので皆がどうした事か、と云われたそうですけれども、「私にとっては、何よりもかによりも、大事なお祭りがあるから」と云う意味の事を云うて帰って来た、と云うふうに云っておられたそうですがね。
心は信心の定規だ、と云う事はそういう事だ、と思うんですよね。 どれ程神様を中心にした生き方をしておられるか、と云う事が分かるでしょうがね。
それで今日はこんな訳でございましたから、玉串だけにちょっと帰って来ますから、と云ったような事ぢゃない訳ですよね。
佐賀県の偉い方達ばっかりの御本が出来てますよね。その本に佐賀県知事の次に伊万里市長、竹内先生が書いておられましたが、一番尊敬する方は合楽教会長、大坪総一郎先生と書いちゃるもんね。 そしてあなたの信条は、と云う所には、土の心を克明に自分の頂いとられる信心を書いとられるです。
中々出来る事っちゃないでしょうが。
いかに神様を中心にしての市長であり、又、市政の上にも信心を基にしての私である、と云う事をはっきり云い切っておられ、自分がどの位合楽を中心にしておるか、と云う事、その事がその方の信心の度合いだ、と思いますよね。
素晴らしい信心の定規でしょうがね。
どんな場合であっても、いつも神様を中心に申し上げてある、と云う事ね。
幾ら熱心に信心しておってもどうであっても、自分が信心を頂いておる、と云う事を公にしきらないような心、と云うのは良い悪いのぢゃないけれども、自分自身の信心の定規で計った時に神様をこれだけしか頂いてない、と云う事になるでしょうがね。
昨日のお祭りの場所、あそこは長崎県になるでしょうね。江美の島と云う太閣秀吉が朝鮮征伐の時名古屋城築城した時に、あそこまで出ばって来たんですね、そして此処が太閣秀吉の釣場であった、と云う所がございます。
昨日帰りに聞かせて頂いたんですけれども、そこの伊万里湾を、一望に見える素晴らしい景色に恵まれたとこですが、そこに、三十億かかっとるとあの家が、今度は五年がかりで出来た。
そりゃもう大変なお家なんです。
それを、初めて伊万里支部大祭に自分の家を使ってくれ、と云われたと云うんですが、あちらの御主人もお祭りして頂いとりましたし、お紹介をして頂いたんですけども、成程おかげを頂く人は違うですねえ、素晴らしいです、やっぱり。
竹内先生が云うてられましたが、私に紹介しながら、私共は合楽で信心の稽古をさして頂いて、地の心には本気で取り組ませて頂いても、出来たり出来なかったたりですけれども、天の心に欠けております事を感じます。
こちらの御主人は天の心をもち合わせた方です、と云うて紹介されました。
お祭りが百五十人位あるだろう、と云われたら、その前日布団屋に注文されてね、もう素晴らしい布団を買い集められた。
又、神様を奉斎する後のバックを、と云うので金屏風を買われたり、もう百五十人ものお客様を受ける、と云う事はないから、やっぱお道具なんかでも色々買われた、と云う。これも今度買われたんですよ、と云うて色々云うて聞かせてもらいましたが、ひとっつも条件がない、無条件で提供する、と云うかね、
その事に心を集中する事が出来られる方である。
昨日、お祭りが済みましたら、庭をずっと案内して頂いて、此処に水子観音ばっかりを建てる場所がちゃあんと出けておりました。 所が、今日の先生のお話しを頂いて、それが如何に他愛いのない事か、と云う事が分かって、これもこの計画もとりやめます。
お庭に狸が二匹飼うちゃる、狸がちゃんと餌付けしちゃる、その横に水子観音を大きく建てられる筈ぢゃったね。
二人のお子さんを中絶されたのか、その私の方に水子がおりますのでね、それはもう仏間なんか云うたら、どれだけ金がかかっとるかわからん、と云うような素晴らしい仏間です。
勿論、何もかにもで三十億でしょうけれども、いくら金の値打ちがない時と云うたってですね。
それこそ庭が一年位かかる、と云う予定でなさっとられたけれども、合楽の先生が見える、と云うので急ピッチで、私共が昨日参った、その前の晩までかかって庭をきれいになさっておられました。 兎に角、大きな門づけらしくて何十屯と云う石があっちこっちにたばねてありますし、植木なんかは、取りまわしどんが出来るこっちゃない、大きな松の木のこんなのが、どっからどう運ばれただろうか、と思うような、今太閣と云う感じですね。
だから私は思いました。これが本当に今太閣と云うような羽振りと云うか勢いと云うか、その人柄にもよる事でしょうけれども、あれだけの財をなされたんだ、それが今太閣に終わったんではいけない。折角、私とこうして縁が出来たんだから、これが子にも孫にも伝わっていくような、おかげを受けられなければいけないなあ、と思い、その事を御祈念させて頂いた事でございました。
あちらへ参りまして、こんな花台見た事ないと云う程の、そりゃもう立派な紫壇の花台を頂きました。この花台の上に壺を置く訳でしょうけれども、天下の名品と云われるような花瓶が置かれて初めて、この花台につりあう訳です。
所がみかけは素晴らしいけれどもね、ちょっと素人好きのするような壺が置いてあって玄人が見たらつまらん、と云うようなものを置かれたんでは値打ちがないでしょうね。
私はそういう基盤的なもの、素晴らしい花台のような所までおかげ受けてあるから、これにいわゆる本当のもの。
同じ信心でもね、兎に角、仏間が出来た理由と云うのは、従業員の方が何人も亡くなられたんだそうです、まあお仕事か何かでしょうね。
ですからその方達の霊をお祭りする為に、中央にお祭りがしてある。その仏壇の右端、左端に小さい拝み場所があるが、そこが、そちら宅の仏様、御霊前だ、と云う事でございますが、そういう考え方の人ですよね。
従業員が亡くなられ、その方達の霊を慰める為に仏間を作られた、と云うね。
そりゃ、成程、私共が聞くとつまらん事だ、と思いますけれどもね。分からないからこそ水子を供養する為に、観音堂を建てようとしておられたね。
その心根が、やっぱり天地に通うのでしょうね。
その美しい心。
成程、竹内先生が云われるように、天の心です。
あれに、地の心、天心地真と此処では云われる。天の心、地の真が、その人柄の中に入っていって初めて、今太閣ではない、子にも孫にも伝わるような働きにもなっていく事だろう、と思います。
今日は余談になりましたけれども、昨日のお祭りを頂いて、それこそ廊下にまでいっぱいの、沢山の参拝者と華やかなお祭りでございましたが、その方が云うとられました。
伊万里の竹内市長が拝まれる神様、なさる宗教だから、これは本当のものだろう、と思いました、と云っておられます。
はあ、あれが信心しよるとならばろくな神様ぢゃなかろう、と云うごたる人柄であってはならない事が分かりますね。
どんなに合楽が素晴らしいと云うても、あんたが参りよる所なら大した事なかろ、と云うごたる風なぢゃなくて、あなたが参りよんなさるから、合楽の金光様は素晴らしい神様であろう、と云わせ思わせるような、信心を頂いてもらいたいと私は思います。
それにはね、あなたの信心がどれ程神様を中心にした頂き方をなさっておられるか、自分の都合で神様を右、左にするような事ではなくて、それこそ心は信心の定規ぢゃ、あなた方の一人一人の心の中に定規を当ててみて、只、どうぞどうぞ、と願うための神様であるかね。
竹内先生ぢゃないですけれども、それこそ市長の御用も大変な御用なんですけれども、それよりもましての事の為に、今日は御無礼する、と云うて帰られた、と云う事でございますがね。
自分自身の信心の定規を、そこに押し当ててみると自分がおかげ頂ける、頂けない、と云う事が分かるでしょう。
どれ程、神様を中心にした自分の一日の動きと云うものがなされておるか、と。
これも車の中で聞かせて頂いたんですけど、中川建材の社長、もう八十幾つになっとられたでしょう。
昨日亡くなられた、と云う事でございましたが、丁度、十日位前だったでしょうか、電話が掛かってきて、今日は私が何時からテレビに出るから見て下さい。と云う事だったそうです。
で、私はそれを見せて頂きましたが、社長の一日と云ったようなものが、ずうっと色々紹介されてました。
それで、信仰は、と云うふうに云っておられたら、毎月、篠山神社にお参りされる。参っておられる所がテレビにも出てました。
金光様の、この字も出なかった。
そりゃもう、此処で御先祖の霊様をお祭りなんかもなさっておられるけれどもね。
金光様の御信心を頂いておる、と云う事に、私はそん時に合楽の金光様に参ってこうです。と云われるぢゃろかぁ、と思いよったら篠山神社ぢゃったね。
まあ、それを出来るだけ隠したいようなものがある訳ですね。
金光様の信心をしておる、と云うような事を。
結局、それだけのもんだ。と云う事が分かるでしょう、ね。
竹内先生の場合は云ってました。
もう堂々と公の御本に、私が一番尊敬するのは、合楽教会長の大坪総一郎先生だ。
いうなら自分の信条は、合楽の信心の芯を、悟っておられるね。
皆さん、今日の心は信心の定規ぢゃによって、自分の云うておる事、行のうておる事、その事が自分の信心の定規なんですよ、ね。 私をこの位にしか、思うとらんばいの、と云うのと、あっそれ程までに思うておるか、と云う、これは神様の立場でいうならばですね。
そこに伊万里支部結成と云うような事にもなってきたんだ、と云うふうにも思うんですね。
堂々たる神様を自分の心に頂いておるのですから、堂々と発表出来る、形に表す事も出来るような信心を頂きたいと思います。
心は信心の定規ぢゃによって、と云う事を私は昨日の伊万里支部大祭に感じました事と、今日の御理解に合わせて聞いて頂いた事でございますが、果たして皆さんの心の中に定規を押し当てた時に、どの程度に私の神様が、私の心の中に入っておられるかとね。
これは、甘木の平田さんが云うとられました。
一に神様、二番目に公、三番目に私的な事、と云うふうに云うとられましたが、私の場合は、これはどんな場合であっても、一にも二にも神様、三にも神様です。
そこにです、私の信心の定規と云うものは押し当ててみれば、すぐ答えが出てくる訳なんですよね。
皆さんの場合どういう事になってくるでしょうかね。
「どうぞ」